元恋人と初めて寝た朝、私は遠くに住む恋人のことを考えていた。窓からは場違いに明るい光がとろとろと注ぎこまれていて、白い部屋をいっそうまぶしく満たしている。薄目を開け、額にはりついた髪を払いながら私は長い間連絡の来ていない恋人を想った。困ったように笑ながら、「連絡が来ないってことは生きているってことだから」と私に告げた日から、もう何日経ったのか思い出せない。
 弱いんだよなあ、と思う。私も、私の恋人も。私のあいするひとは全員そうだ。
 もちろん、それを言い訳にするつもりはないけれど。

                                                                                ( アダルト. )

 たまたま元恋人と色違いで同じデザインの腕時計にちらりと目をやり、左手の薬指につけたままだった指輪をはずした。できるだけそっと置いたつもりだったのに、指輪は不規則にくるくると何回か回ってからようやくことりと落ち着いた。元恋人は私の腕時計と同じ瞳の色をしている。黒い中心を金色がぼんやりと縁取り、そこからあいまいな蒼色が、外側になるにつれて濃くなるように広がっている。海と空の境界線の色。長いまつげはくるりときれいに上を向いていて、肌は陶器のように白くすべらかだ。振り返った私が元恋人の名前を呼ぶと、彼は寝ぼけた唇をゆるくむすび、幸せそうに私の額に彼のそれを合わせてきた。そのまま鼻を何度かこすり合わせ私の唇にひとつだけキスを落とす。「おはよう」、とかすれた声が言った。元恋人が母国語であるドイツ語を話すとき、おばあさんの声に聞こえると笑っていたのは誰だったっけ。変声期は疾うに終えたはずなのに、まだたまに高らかな声。他にひとがいるときは皮肉や意地の悪いことばかり言うくせに、二人でこうしているとき、元恋人は本当に優しい声になる。錯覚してしまうくらいに。おはよう、と私は瞳を開けたままキスを返した。華奢だけれどきちんと筋肉の発達した腕に頭を抱き寄せられ、顔がまた近くなる。焦点がうまく合わず、口元にあるほくろと彼のあおいろがぼやけた。晴天をにじませたような色だなと、数年前に思ったことを今一度ぼんやりと思う。
 酔ってはいなかった、と思う。貸し切りになっていたバーは明らかにお酒が足りていなかったし、からだのどこを探しても鈍痛は見当たらない。悪いのは私だ。やけになっていた。終電がなくなったのを理由にそのまま元恋人の家に数人で泊まり、私たち二人は同じベッドにもぐりこんだ。隣の部屋で眠る友人たちが起きてこないように、私たちは目が合うたび、慎重に声を立てて笑った。電気を消して戻ってきた元恋人がふざけて後ろから抱き付いてきたとき、意外にも強い力をこめて元恋人が私の手を握ってきた。わずかに開かれた窓からは湿った夏草のにおいがしみこんできている。天井に穿たれた穴からもれる月明かりが唯一の光源だった。
 「…大きくなったのねえ、」
 私に覆いかぶさるような格好になっていた元恋人を見上げながら本気でつぶやくと、元恋人は呆れたように笑って私の腰に優しく手をやった。まだ新しいらしいベッドのスプリングが軋む。しょっちゅう模様替えする元恋人の部屋が数年前はどうだったのか、私は今でもはっきりと思い出すことができる。
 「それはきみのいつもの皮肉?」
 「――失礼ね、本気よ。あなた付き合っている頃は私より少し低いくらいだったのよ、」
 私がふてくされてそう返すと、元恋人は私の首筋をつうとなぞって一人でおかしそうに笑った。「僕はきみの膝くらいまでしか背がなかったときだってあったよ」。それもそうねと私が笑い返すと、元恋人は言葉を返す代わりに無言で私を力強く抱き寄せた。思わずちいさく笑い、私は無秩序にジェルでかためられた元恋人の髪をほぐし、彼の繊(ほそ)いブロンドの髪をすくい、彼のまぶたをなぞり、彼の形の良い唇に触れた。下唇が数箇所だけほんのすこし破れているのを見つけて、私は元恋人も唇が荒れやすいひとだということを思い出した。
 私たちはしばらくの間とりとめのないことばかりを話した。生粋のアーリア人の定義は元恋人がそうであるように金髪碧眼かつ長身である必要があったこと、友人がある日痛々しいキスマークを首につけられたまま学校に来たこと、好きなカクテルの名前、夏休みの予定や彼の昔住んでいた土地についてなど。元恋人が私のシャツの中に手を入れたときでさえ、私は不思議なくらい何の抵抗もしなかったし、試みようとも思わなかった。私の頭の中には、非常に理不尽なことのように思えるけれど、常に恋人がいた。
 私は恋人と初めて寝た日のことを考えていた。告白された日のことを思い出していた。ああ見えて私の恋人はきっと昔は気性が激しく、ふとしたときの表情や視線のやり方や考え方にそれが今でも垣間見えることがあった。私は恋人のふるえるひざを思い出す。緊張してつめたくなった指を思い出す。臆病な視線を思い出す。笑うと顔中に刻みこまれるしわを思い出す。生真面目で、実直で、正直で、一途なあのひとの性格を思い出す。

 わかってきたつもりだった。
 理解しているつもりだった。

 戸惑うように私の背を顔を撫ぜていた元恋人の片手をとり、私は自分の手に重ね合わせた。元恋人が私の前髪をかき分ける。その動作が本当にいとおしくて、私は自分のやっていることやろうとしていることを改めて自覚する必要があって、でもそれをやめようとは思わなかった。恋人が私の額に口付ける。元恋人が私の唇をなぞる。私は恋人の指先に口付ける。知らないのだろうか。彼は。
 でも、今、私の目の前にいるのは、元恋人であって、私の恋人ではない。
 私は恋人の喜ぶことを知っている。彼を嬉しくして幸せにする方法も知っている。彼を傷つけ悲しませる方法も、だから、たくさん知っている。でも恋人はちがうのかもしれない。だからあんなにこわれてしまうのかもしれない。本当のところ、私たちが思っている以上に、ずっと、ずっと、私たちは表面的なのかもしれない。表面的だった、のかもしれない。
 額を合わせているうちに自然と元恋人と唇が触れた。どちらからともなく何度か唇を合わせ、舌ですっと唇の輪郭をなぞった。私たちの間にできた銀の糸が星のようになまめかしくひかる。元恋人は私の首筋に口付ける。昔そうしていたように私の胸に顔をうずめる。
 永遠を願ったことはある。
 でも、永遠を信じたくなったのは、恋人ただ一人だけだった。最初に嘘をついたのは恋人で、最初に裏切るのは私だ。
 私はそのまま無感情に元恋人に抱かれた。意識の片隅で、私はもうずうっと春から遠いところへ来てしまったことを、ただ一人で悔やんでいた。


 evergreen / 花月夜