刃と刃のぶつかる音に鼓膜と、支える指が震えたことを覚えている。 風を切る刀の音に心の澱みが、迷いが、掬い上げられているような気がした。 記憶の中の赤は鮮明なまま、アキラの瞼の裏に焼き付いている。 けれどただそれだけだ。 あれはもうない。 届かない色だ。 何がそれを遠くへ連れていこうとしているのかわからないけれど、無性に悔しい。 手の届かない高みにあったはずのシキの強さが、傍らで失われていくのが悲しい。 そして多分、それ以外の気持ちにも追い詰められて心に穴が開きそうな気がした。 重く垂れる暗雲が、視界の先の山の上で、墨を滲ませたように淡く黒く空を染めている。 雨が降るのだな、と思う間もなく、ぽつんと一粒鼻先に落ちた。 不規則に一粒ずつ落ちてくる。 頭上の疎らな雲は風に乗って速く流れた。 すぐに止んだ雨についてとくに言うべきこともなく、アキラもシキも口をつぐんだままで。 いつものことと言えばいつものことだが、「いつも」という言葉を当てはめられるほどアキラがシキと過ごした時間は長くはない。 「・・・」 湿った風の匂いと昼間なのに薄暗い夕暮れのような天気、緩い足取りで前を行く黒い背中。 そのどれもが、アキラの中に残るトシマでの記憶に重なりそうで僅かにずれて目に滲む。 あの日とは重なりようのない今日という現実が目の前にはある。 何か大切かもしれないものが手のひらから滑り落ちていくようで、アキラはぎゅっと唇を噛んだ。 灰色の空を仰ぐと頭が重く痛んで、目元を押さえる。 あんなふうに泣いたのはいつぶりだったろう。 数日前のことを振り返って目を瞑る。 アキラは元々感情の起伏がほとんどない質で、だからこそ、何か起きたとき自分の感情の爆発に対応できない。 振り回される。 それはトシマでのことで十分わかっていた。 ほんの少しの苛立ちが、取り返しのつかない結末を呼んだ。 そんな自分に悔いても悔いきれないで、けれどなんの償いもできないままで、ここまで歩いてきてしまった。 振り返る余裕がなかった。 前を向くだけで精一杯だった。 視線を逸らせなかった。 ほんの昔のことに思考をとらわれているうちに、目を離した隙に、目の前のシキの存在が霧散しそうな気がして怖いのだ。 だからなのか、あのとき普段なら口にできない感情の塊が零れた。 怒っていたのか、泣いていたのか、アキラ自身よくわからなかった。 みっともなく叫んで何かにすがって喚き散らして、それでシキの中の何かがここに残るならその醜態にも耐えられる思った。 けれど。 あれから、シキとは一言も言葉を交わしていない。 振り向きもしない。 あのときの言葉は、意識して紡いだものではなかったからこそ嘘も言い訳もなく、アキラが思ったこと全てだった。 だからもう他に何を言えば良いのかわからない。 伝えるべき言葉が見当たらない。 アキラの持てる全ての言葉でも、シキを引き留められない。 その事実が堪らなく悲しく思えた。 (仕方ないのかもしれない) そんな諦めに似た気持ちが胸の内で渦巻く。 そもそもシキの気持ちを傾けられるほどアキラはシキの傍にいるわけではない。 引きずられるまま引きずられ、なぶられて、成り行きで隣にいる。 分かりやすく拒絶されたにも関わらずそれでもついていく自分の行動も不可解だ。 もうずっと前に離れているべきだったのかもしれないのに。 それでも「傍にいるべきではないのではないか」と思うたび、咎めるように胸がずきずきと疼く。 (俺はなにをそんなに諦めたくないんだろう) 冷たい拒絶の色しかない背中に、なにをこんなに求めているのだろう。 息がつまる。 体が強張るようで、上手く歩くことが出来ない。 苦しいのは体なのか、心なのかわからない。 苦しいのだとして、なぜそうなるのかわからない。 もうずっと堂々巡りの輪の中で頭だけがずくずくと痛んだ。 自分が何をどうしたいのか、よくわからなかった。 俯いて歩く道の先、シキの足取りがいつの間にか頼りないものになっているように感じる。 できればそんな姿は見たくなかった。 以前なら休息を促したところだが、今はもうできない。 返事など返ってきはしないから。 意図的か無意識的なものか、纏う空気から後者が感じられ言い様のない焦りを覚える。 やり場のないじれったさを逃がすよう、ため息に似た深呼吸をする。 いつの間にか火照っていた体に冬先の空気が冷たく染みた。 こんな日がずっと続いて欲しいとは思わない。 けれど明確な転機が訪れることも怖かった。 今変わる物があるとすれば、それはアキラとシキの関係などではなく、シキの存在そのもののように思えて仕方なかった。 ちり、と毛先を焦がすような視線を感じて肩越しに振り返る。 シキもゆっくりと足を止めた。 一拍遅れて、悪寒に近い殺気に身を晒され、荒い呼吸と手にした獲物の鋭利な輝きが剥き出しの状態で向けられているように感じる。 「・・・、シキ」 呼び掛けることに意味を見いだせなかったが、それでも促すように名を呼ぶ。 応える声などなかったが、緩慢な動きで刀の柄を掴むのが見えて少し安心する。 それで十分だった。 数はそう多くないようでまだ囲まれてはいない。 走れば逃げ切れるかも知れなかったがシキはそうはしないだろうし、なにより追っ手はその場で減らした方が後々楽だと思う。 人の生死を自分の道行きの楽さだけで勘定できるようになっていることに、その時初めて気がついたが、そんな自分を嘆いている暇などアキラにはなかった。 右の腰にぶら下がっているホルダーに手を伸ばす。 だだ漏れの殺気は、二人が武器を手にしたことにより一層強くなった。 じゃり、と地面を蹴る音がする。 顔の前でナイフを構えた。 その視界の端、もはや構えもとらないシキの姿が気になった。 ゆるゆると下ろす刃の先はしっかりしてぶれる事はないが、意識もそれに準ずるかは定かでない。 戦闘中放心したように遠くを見つめる。まるで動かず、石のように立っているだけで、されるがままになる。 最近その頻度が急に多くなった。 なるべく離れないようにしなければ、そう思う。 これ以上シキの中の何かが離れていくのが、怖い。 「うう・・・、ああああああああ!」 獣の唸るような声と同時に、連なっていた廃墟の影から男が飛び出してくる。 叫びは男自身を鼓舞するためのものだったのか、正確さを欠く乱暴な動きで食らいつくようにシキを目指している。 まったく微動だにしないシキを庇わざるを得ず、男の振り上げたナイフを受け止める。 びり、と手のひらの血管に響く振動。 渾身の力を込めて振り下ろされたと思しき刃は、勢いがあるからこそ弾き返すように斜めに流すことができる。 噛ませるようにナイフをひくと、バランスを崩した男がアキラの側へ倒れ込んでくる。 ついでに足払いをかけてやると横向きに転倒した。 ずいぶんお粗末な戦い様だった。 洗練されていない動き。 個人の私怨で追っているのだろうか。 その男の頭を蹴倒し、乗り上げるようにナイフを掲げる。 「ひっ」 風を切るように男の喉が鳴って、怒りの形相が恐怖に滲む。 随分あっけない、短い戦闘に一瞬気が緩みそうになる。 けれど振り下ろすその瞬間、男が潜んでいた物陰から一人、さらに背後から恐らく二人が飛び出してきたのがわかった。 そこにいることがばれていた時点で意味はないが、この男は囮のつもりだったのだろう。 彼の顔から目をそらし、二人目の男と、背後のシキの様子に気を配りながらナイフを突き立てた。 たぶん、胸だ。 短い断末魔とがむしゃらな抵抗に体が揺れたがすぐに止まる。 即座にナイフを抜いてもう一人に応戦する。 次の相手は長めの太刀で、刀身の長さでは不利だったが懐に入ってしまえばどうということはない。 今までかかった追っ手と大差ないそのスタイルに、慣れてしまった体は少し力を抜く。 銃声も何もない。残りの二人も接近戦用の武器しか持っていないのだろう。 引き抜くナイフから温かく血が舞って、空気が一気に生臭くなった気がした。 気がしただけでなく、実際にそうだったのかもしれない。 わからない。 早くこいつを片付けて、シキを援護しなければ。 そう思う。気が焦る。 けれど、いつも抱いている考えれば考えるほど胸の熱くなる理由のわからない焦りとは違う。 今気が焦れるのは、一刻も早くシキを視界に入れたいがためだ。 どんなに冷たくあしらわれても、怒声や泣き言に返事をくれなくとも、放っておけない。 助けたい。 --あのとき、例えアキラの勘違いだったとしても、アキラのために刀を抜いたその姿に胸が満たされたから。 きん!と冷えた音が背後から聞こえる。 日本刀が何か金属を弾き返した音だ。 涼やかな音にほんの一瞬安堵を覚える。 シキがまだ戦っている。 その音に応えるようにアキラも手の中のナイフで目の前の男の唸りと刃を受け止めた。 振動に肺から息が漏れる。 代わりに吸い込んだ酸素が明らか先程よりに湿り気を帯びている。 より一層あの街を思わせる空気に、じわりと体が熱くなる。 同時に先日殴られた時の頭の傷が緩く痛んで、目を瞬く。 しかめて歪んだ視界で思い出す。 「・・・、」 そうだ、あのとき。 あの頃とは違う姿だったとしてもそこに立っているのがシキだとわかって、アキラは胸がいっぱいになった。 本当の理由なんてわかりもしないが、それでも何か意味を持って刃を振るうその姿があったことが。 目の前で迷いなく一閃したシキの後姿が見えて。 「何故」と心が問うその前に、胸に暖かい気持ちが去来したのを思い出した。 まるで覇気も威厳もなく、それでも何か意味を持って刃を振るうその姿があったことが、嬉しかった。 そう、多分一瞬でも胸を満たしたこの気持ちは、嬉しい、で正しかったんだろう。 今更になって気が付いた。 倒れた男の血で足が滑る。 急に強く鼻をつく濃密な香り。 ナイフを捌く手の正確さはそのままにぼんやりとアキラは考える。 たったあれだけで本当はよかったのかもしれない。 わかっていたのかもしれない。 返事がないから、言葉にされないから、わからない。 相手の真意が知りたい。知りたいのに、教えてくれない。自分もうまく伝えられない。 だからきっと、トシマでは道を誤った。 ずっと、一緒にいたつもりだったのに。 そうなりたかったわけではなかったのに。 (あんなのは、もういやだ) だから繰り返したくない。 失うのが恐ろしい。 もっと知りたい。 知って、たぶん傍にいたい。 だからきっと、願った。 シキに添いたいと。 アキラ自身、結局それが自分の気持ちの正解であるかなどわからない。 恐らく、まだ見えない膨大な感情の一端でしかないのだけれど。 それでも「そうかもしれない」と思える気持ちがあることで、幾分視界がクリアになったように感じた。 そうして場違いな意識に一瞬思考が沈んだが、力を込め地を蹴った瞬間、ふいに音を立てた自分の呼吸に意識が呼び戻される。 「・・・!」 手に伝わるリアルな感覚。弾く刃に、相手はすかさず次の一刀を繰り出す。 上体を屈めて太刀を避け、右の拳を鳩尾に叩き込む。 散らす唾液を見送るまもなく横なぶりに脇腹にナイフを突き刺すと、低い嗚咽に似た呻きが聞こえた。 引き抜くと血がゆるく溢れ、続けざまに胸の中央に刃の切っ先を沈める。 男の体はびくりと震え僅かに脱力した。 勝利を確信する。 けれど同時に背後から何か金属のぶつかる高い音と、獣じみた狂喜の雄叫びが聞こえ、心臓がはねた。 続けて、ひゅん、となにかが風を切り、地面に突き刺さるような鈍い音がする。 「・・・シキ?!」 思わず振り返ろうとして、まだ意識のある男の血塗れた手に髪を捕まれた。 しまった。そう思った瞬間に左肩に震えた刃が食い込む。 放しそうになったナイフの柄を握りなおし、押し込み、勢いよく引く。 男が目を見開き喀血する。 その赤をまともに被ったが構っている余裕はなかった。 倒れ様に突き刺すように引かれた刃物に肉が裂かれても、気にしていられなかった。 「シキッ!!」 振り返り、すぐに目に入ったのは間近の地面に立った日本刀。 それから、少し遠くで横たわる黒い影。 縫い止めるように体に突き立てられたナイフ。 「っ・・・!」 目の前の現状を脳で理解する前に、体が動く。 恐らく名を呼ぼうと吸った空気は、そのまま震えて音のないまま吐き出された。 右手で日本刀を引き抜く。 初めて触れるずしりとした重みが、目の前の景色を現実だと訴えてくる。 赤く緩やかに流れて地面に染みる血が見える。 シキの血だ。 「・・・・・」 気づいた瞬間、ざぁっと音をたてるように血の気が引く。 ナイフと日本刀を握った手が痛かった。 「っああああああ!!!」 自分でも気づかないうちに喉から迸る叫び声。 急に取り乱し駆け寄ろうと走り出したアキラを、せせら笑うように男達がシキの体に刺さっているナイフを引き抜く。 笑いながら、おそらく罵声を浴びせている。 アキラにも、シキにも。 どくどくと身体中が脈打って、自分の心臓の音しか聞こえなくなる。 かすかに震えて見えたシキの体に、目の前が赤くなる。 息を荒げるアキラに、男の一人が抜き取ったナイフから血が滑り落ちるのを見せつけるように振る。 飛び散るのは、シキの血だ。 かっと頭に血が上った。 あと一歩、何かに気付けたかもしれないままで終わるなんて。 そんなのは、もういやだ。 「・・・いやだ」 喉が震えた。 寒くもないのに歯の根が合わない。 気づくと声もないまま口の中で繰り返していたのは何かに対する否定の言葉で。 初めて振るう刀は、重かった。 がむしゃらに突進し、戦い方も何も考えていない捨て身の攻撃で、よく倒れなかったものだと後になって思った。 相手の体が動かなくなっても何度も何度も刃を沈めた。 命乞いも、断末魔も、聞いたのかもしれないが覚えていない。 ふと見下ろした地面がやたら赤黒い。 動かし続けた左腕が、肩から失われた血のせいで鈍く、感覚もない。 日本刀が扱い辛くて苦戦した。置いておけばよかったのだと気付けなかった。そのくらい必死だった。 ただ、抱き起こした半身が僅かに暖かいことに安堵しする。 今までのシキの戦いぶりでは、いつ戦闘中に刀を取り落としてもおかしくはなかった。 いつかこうなってしまうのではと恐れていたことが起きた。 ただそれだけだと自分に言い聞かせる。 「おい・・・、」 ナイフと日本刀が湿った地面に転がる。 ぎゅ、と抱き寄せた体は血でぬめる。 こんなにたくさんアキラから触れたのは初めてだったかもしれない。 感慨もなにもない。 脱力した体が、腕の中でただ重い。 「シキ、」 呼ぶ声が震える。 応えないのはいつもどおりだ。 けれど、薄く開いたままの瞳の赤はガラス玉の輝きすらなくて。 大丈夫。あといくらか時が立てば、いつものように立ち上がる。 アキラの手から刀を無表情に受けとる。礼も、小言もなく。 きっと、そうだ。 「シキ」 思い込もうとするのにどうしてもうまくいかない。 嫌な汗が背を伝う。 何がどう、明確に変わったかなどわからないけれど、確実に何かが変わってしまったことだけは痛いくらいに感じた。 そこにいるのに、もう「何か」の欠片すら残っていないように思えて怖くなる。 「・・・・」 上手く動かない腕で立ち上がらせようと体を引く。 自分の体も、シキの体も、少しずつ冷え始めていて呼吸が震える。 音を立てて落ちた水が、降り出した雨か、溢れそうな涙か、止まらない血か。考えることすら出来ない。 抱きしめる腕に力をこめた。 抱き返してくれる腕など、最初から得てもいなかったのに、理由もなく無性に恋しいのが滑稽で、でも笑えなかった。 |