3/3 「アンナと王様」を見て
3/10 外国語の発音について
3/20 口紅の話
3/31 民放の美術番組の不満

3/31 民放の美術番組の不満

ここには愚痴ばかり書いているような気がするが、また愚痴になる。

このたび4月の末から、大阪でフェルメールの展覧会が開かれることになっており、各地で話題になっているのだが、私も大変楽しみにしている者のうちのひとりである。

だいぶ前になるが、このフェルメール展の前宣伝のようなテレビ番組が関西の××放送で放映された。宮本亜門が司会であったから、或いは全国放送であったかもしれない。それは私の知る所ではない。

私としては、フェルメール・ファンとしてはやはりチェックしておかなくては、という義務と期待から、録画もしてこの番組を楽しみにしていたのだ。

なまじ、民間放送の絵画特番に期待などするから、あとで、怒髪天をつくまでイカリがおさまらぬ、嘆かわしい事態に陥ってしまうのである。
期待した私がばかだった。
民間放送に、期待など金輪際するものではない。

***

なぜ、絵画の特番になると、有名なのかそうでないのかよく分からない、得体の知れない女が出て来てレポーターなどと言いつつ、ただ画家のゆかりの地を歩くだけの場面が出て来るのか。

このフェルメールの番組の場合、女はピアニストらしかった。
この女が訳の分からないピアノを弾く場面が、主題と何の関連もなく出て来る。

この女がフェルメールを好きで好きでどうしようもない、とはとうてい思われぬ。
この女がフェルメールとどういう関連があるのか。
何もない、としか思われない。
むしろ、フェルメールという名など今始めて知った、としかいいようのないコメントをする。
レポーターと称するくらいなら、なぜ、もう少し画家に詳しく、もう少し画家を愛し、しゃれたコメントの出来る人間を選べないか。

なぜ民間の絵画番組はこのように十年一日の如く、何とかのひとつ覚えのようなお決まりの演出しか出来ないのか。
演出家に知恵というものがないのか。

レポーターに町を歩かせ、絵の前に佇んでため息をつかせ、資料館のような所に行き、担当の学芸員と握手をさせる。
もうちょっとましな演出というものが考えられないか。

おおかた、画家とピアニストという、芸術家同士で何か触発されるものがあるだろうという、単純な憶測にもとづいた発想であろう。
どうにかならんのか。

***

極めつけは、このピアニストらしき女がフェルメールの有名な「青いターバンの少女」の前に来ると、やおらメモ帖を取り出し、音符を書きつけ始める。
そして、ピアノを弾き始めるのだ。
フェルメールの絵に触発され、曲を書いたらしい。
この番組はお笑いか。

よく恥かしげもなくフェルメールの前で曲が弾けるものだ。
或いはこんな演出をしてよく恥かしくないものだ。

***

また、フェルメールといえば、ファンの間では広く浸透しているファン・メーヘレンの贋作事件があるが、この事件についてもそうとう時間を割いているのが、この番組のいっそう野暮天なところである。

はっきり言って、ファン・メーヘレンは、フェルメールそのものとは何の関連もないのである。
そんなものをフェルメールの番組に嬉しそうに付け加えるな、と言いたい。

おおかたフェルメールと聞いて、それくらいしか思い浮かばなかったのであろう。

今回、だいぶ毒づいた。
おかげで、何だかすっきりしたようだ。

いやいや、悪口を言うということは、なかなか気持ちのいいものだ。

 

3/20 口紅の話

またまた化粧の話で申し訳ない。
私は元来メイクは5分くらいで終わってしまうので、本来なら語る資格などないに等しいのだが、口紅が減ってくると、新しい色が欲しいと思い、それと同時に口紅に関して文句を言いたくなってくるのだ。

それは口紅の容器が大きすぎる、ということだ。

私ははっきり言って、口紅をリップブラシを使って書く。
だから、口紅の底の底をほじり、最後の一滴(?)まで残さず使うのだ。

であるから、口紅は長持ちする。
1年くらいは同じスティックを使っている。減らないからだ。
減らないと、いつまでも同じ色の口紅を使うことになる。
これが、飽きてくる。

メーカーは、シーズンが変わるたびに新しい口紅を宣伝する。
それなら、ワンシーズンで使い終えてしまう大きさの口紅を販売せよと、私は言いたい。

シーズンが終わり、次のシーズンが始まるまでは口紅は使いきらないのだ。
それだけ持っていると、やはり飽きが来る。
はやく次の口紅を使いたい。
でも、前のを捨てるのは勿体無い。非常に勿体無い。

環境から考えても、エコロジーから考えても(同じか)まだ使えるものを捨てるというのは、神の冒涜にも等しい。
そんな恥さらしは私には出来ない。

リップを直接唇に塗り、容器から突起がなくなった時点で口紅を用済みとする人は、このような苦しみはないであろう。
約半分、終わり方が違う。
彼女らは、早く口紅を変えられて幸福である。

だから、私はもう少し小さなリップが出ないものかと思っているのだ。

***

以前、日本の各メーカーからミニ口紅というものが発売されていたことがあるのだ。
あれは、とても小さく、気軽に次から次へと変えられて便利なものであった。

ところが、いつの間にかすたれ、今ではとんと見かけなくなった。
ああいうものがもう一度見なおされないものか。
と私は切に願っている。

ワンシーズンごとに口紅を変えるのなら、メーカーが変えよと言うのなら、もう少し小さなスティックで十分だろうが。

***

ところで皆さんは、口紅の底というものをご存知であろうか。

これは、最後までほじほじする私のようなものだけが知る特権なのであるが、口紅には底というものがない。
底には穴が開いており、ブラシでほじるとすこんと筒抜けになるのだ。

よく本体が落ちないなと思うが、穴は少し小さめに開いており、落ちないようになっている。

なぜ、空洞なのかは、謎である。


さらにもうひとつ付け加えることにする。

昔、ある所に

"女は、男のために化粧をするのだ、男のためにおしゃれをするのだ。男に見てもらいたい(或いは男に見られたい)がためにそうするのだ"

と主張してやまない男性がいた。

こういう人間が、現在も生きているかは分からないけれども、こういう輩に対しては、

"笑わすな"

或いは、

"つけ上がるなよ"

とだけ言いたいものだ。

京都ではそういうのは見かけないのだが、都会には、ガングロ少女がアダモちゃんメイクで出没しているそうだ。

彼女たちのメイクは、決してきれいになろうという発想のものではない。
あれは、彼女らなりの自己主張というか、自己表現のつもりであろう。

見られたい、という意識はあるだろうが、それは男に媚びるためのものではない。
彼女らの意志の表現なのだ。

(私はあのようなアダモメイク、或いは山姥メイクが決して好きではないが、上述のように、彼女らに好意がない訳ではない)

彼女たちには、せいぜい、世の男どもを震撼させてやって欲しいものだ。

 

3/10 外国語の発音について

少し前になったけれど、四大陸フィギュア(スケートである)も終わり、フィギュアスケートの催しも、あとは世界選手権を残すのみ(?)となった。

だが私の住む関西地方では、世界選手権は放送されないらしいのだ。
いったい、何ということだろう。

四大陸は大阪での開催だったので、かろうじて放送はされた。
多分これだって、放送局はいやいや放送したのに違いない。
大阪だからということで、義理で、しぶしぶ放送したのである。
どこか別の都市で開かれたのなら、これ幸いと放送はしなかったはずだ。

そんな、フィギュアスケートを憎む(?)関西の放送局であるから、世界選手権の放送を望む方がそもそも間違いなのである。

昔は深夜でも放送していた時期はあったのだが、今となっては夢まぼろし。
我々関西人は、世界選手権など、どこか遠い異星のできごととして認識していなくてはならないのである。

なぜ、神はこのような試練を私に与えたもうのだろうか。

ペイザラー様の麗しいお姿を、ワールドの大舞台でのお姿を私は永遠にのぞむことは出来ないのだろうか。
神よ、あなたはそれで満足であられるのか。
この世に神も仏もありゃしない。

たった今神と交信し、その真意がほぼ理解できた。

お前のように気の多い者には、みだりに美しい男は見せないのだと。
ああさよか。

***

ところで以前、NHKで、何らかのフィギュアスケートの番組が放送された際(長野オリンピックであったかもしれない)、担当の女子アナウンサーが、フィギュアスケートのことを「フィギャースケート」と発音していた。

私はこれを聞いた時、大変戦慄し、聞き間違いではないかと何度も耳をこすった。
だが何度聞いても、かの女子アナウンサーは、登場する度に「フィギャースケート」を繰り返すのである。

私はそれ以来、その女子アナウンサーを憎むようになり、彼女は現在土曜日の朝の1週間のニュースのまとめのような番組に出ているのであるが、いつも苦々しく思いながら見ているのである。

たとえば、「フィギャー」が、現地の発音に、確かに近いのかもしれない。
アメリカのみならず、英語圏ではfigure はそのように発音されるのかもしれない。
彼女は、或いは帰国子女で、ただ単に現地の発音に近く、発音して見せただけなのかもしれない。

しかしそれは私には許せない発音であるのだ。
フィギャーと発音すれば、何か猫が踏まれたか、赤ん坊が泣いているような気がされる。
非常に間抜けであり、美しいスケート競技に、それはあまりにもそぐわない発音である。

そんな発音はとうてい許されるべきではない。
たとえ、現地の発音どおりだとしても、である。

私は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」さえ、「フューチュア」と発音したい人間なのだ。

***

かつて澁澤龍彦は、タロットカードというものの概念も、事物も、まだ日本になかった時、これを紹介しようとして、フランス語から「タロットカード」と名づけたのであるが、フランス語の本当の発音は「タローカード」といった。

だが、ダンディズムを旨とする澁澤は、「タローカード」だと、たろうさんがかるた遊びをしているような、何だか間延びしたネーミングになることを嫌い、わざわざ発音されないTをつけ、「タロット」としたのである。

「タローカード」では、あの神秘的な、運命を占うカードの雰囲気がとても出せないと判断したのだろう。
それが現地の発音と違う、と識者に批判されたらしいが、澁澤は譲らなかった。

彼はまた、作家ユイスマンスの名も、本来ならユイスマンと発音されるべきを、ジョリス・カルル・ユイスマンスと紹介した。
その方が重厚に聞こえたからかもしれない。

外国語の日本語表記は、私は臨機応変であるべきだと思う。
どうしても現地語に忠実であるべきだとは思わない。

澁澤は、ソクラテスは本来なら「ソークラテース」という発音が正しいのだが、いちいちそんな風に表記していては日が暮れるから、ソクラテスで我慢してもらう、とも書いている。
けだし名言である。

ゲーテはアメリカではゴーテと発音する。
(ギョエテとは俺のことかとゲーテ言いという川柳が昔あったと思う…)
アメリカでそう発音されているからと、ゴーテと発音する日本人はいないだろう。
ドイツ空軍のゲーリングはゴーリングだ。
ブルー・オイスター・カルト(註)の曲を聴けば確かにそう発音している。
ちょっと聴くと何のことを言っているのか分からない。

だが、アメリカ人をだからといって責めるわけにはいかないだろう。
彼らは、ドイツ語をそのように発音するのだ。
アメリカはアメリカ式にドイツ語を発音する。

だから日本でも、日本式に外国語が租借され、発音されるということは、認められていいことなのだ。

四角四面に現地発音と違うからと言ってそれを認めないという態度は、柔軟な頭脳の持ち主ではない。
それは私がもっとも嫌うところのものである。

であるから、かの女子アナウンサーMは、猛反省ののち、柔軟な思考を身につけ、「フィギュア」という美しい日本式発音をものにしていただきたいと願うものだ。

(註)昔のヘビメタバンド名。

 

3/3 アンナと王様」を見て

掲示板にも書き込んだのであるが、「アンナと王様」という映画を見に行ったのである。

映画を映画館で見るのは2年ぶりくらいではないか。
私は実は「スターウォーズ」さえ見ていないのだ。「マトリックス」も見ていなければ、「アルマゲドン」も見ていない。
(まあこんなのは見ないでも良いだろうが)

この前見たのは、確か「蓮如物語」だったと記憶する。
ウチが真宗大谷派ということもあり、このようなものを見たのであるが、あざとく泣かせる演出がしてあり、アニメ作品として、なかなかな出来であったのが驚いた。

***

学生のころは、誰もがそうであるように狂ったように映画を見たものだが、やはり見なくなるものだ。

最近は休みになるとバービー買い出しのためトイザラスなどへ訪問するほうが先にたち、どうしても映画館には足が向かなくなっている。

RAIZO映画祭などという非常に重要な催しにも行けなかったのが慙愧のいたりである。

レンタルビデオが出始めた頃は、これまた狂ったようにレンタルしたものだが、いつも借りていたビデオ屋さんがなくなり、急に見なくなった。
また、私のテレビのブラウン管が狂い、頭でっかち超短足状態で人物が映るため、テレビ画面を見る意欲もなくなってきた。

とにかくパソコンをやり始めたら、今まで以上に日常の時間もなくなってきた。
テレビを見ている暇がない。ましてやプレステ2などする暇は毛頭ない。
(初めからする気がない)
あのゲームを買う人達は、一体どこから暇を捻出してくるのだろうか。
それがぜひ聞きたいものだ。

***

というわけで、そんなに時間のない私が、なぜまた、わざわざ「アンナと王様」なのか。
自分でも不思議だ。

ジョディ・フォスターをさして好きでもない。彼女の映画は殆ど見ていない。
チョウ・ユンファも「男たちの挽歌」くらいしか見ていないのではないか。

それでもまあ、映画というのは、ある種、キャスティングで決まることがある。
この映画など、キャスティングで殆どが決まった、と言っていいくらいだ。
絶妙である。

見る前からアンナがインテリ女であり、王様がかつてのユル・ブリンナーのような怪人(?)でなく、ちゃんとした2枚目であることが分かるから、これが、ロマンチックな恋の気分に浸れる映画であることが予測できる。

アンナがインテリである、という設定がまたいい。

大変ムード溢れるハリウッドらしい映画で、いやらしいほどに音楽が盛り上がる。
こういう作品で、ヒロインがパーであれば、映画はひたすら甘く流れるだけのものになってしまうだろう。
そういうところをやはりジョディ・フォスターなら、しまるのである。

いかにも頭が良さそうだ。
水気がなくかさかさしている。
それが王様によって、女であることを知らされ、教えられてゆく。
ジョディ・フォスターだから、そういう設定に説得力があるのだ。

頭がよく、また美しく、いわゆる才色兼備というやつ。

***

関係ないけれど、シャーロック・ホームズの「あの人」、アイリーニ・アドラーも、ホームズをいっぱい食わせるほど頭がよく、どこかの国王をたぶらかすほど色事に強く、美しかった。

こういうタイプの女、今は女の時代だからこうして脚光をあびるのだろうが、さて、実際にはいるのだろうか。本当にこの手のタイプは。

またこういう女を好む男性が本当にいるかも、疑問だ。

たいがい美しくてパー、な女がいいのだ。男というのは。
だって、今日び、男の方もパーだもんな。

***

ここまで書いて、半日の間、才色兼備な女性って果たしているのかと考えていた。

そして思い出したのが、版画家の山本容子という女性だ。

「誰でもピカソ」という番組で辛らつな批評をやっていた人だが、顔もなかなか美人で、最近出ているコマーシャルなどを見ると、おっぱいも大きいようだ。

美人で才能があり、女性的な魅力もある。こういうのを才色兼備というのではなかろうか。
彼女など、女の私が見ても憧れるものがあるね。

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