00/12/1 HP開設1周年
00/12/13 市バスが来ない
00/12/27 父の死
00/12/31 今年の1年と来たる21世紀

12/31 今年の1年と来たる21世紀

今年ほど1年のうちでいろんなことが起こった年は、私の長い人生の中でも(笑)そうそうなかっただろう。

父が亡くなるなんて、考えもしていなかった。
でも時は容赦なく過ぎていくものなんだと改めて感じさせられた。
一時も止まることなく、時間は弓矢のように去っていく。
日常の繰り返しを生きていたら、そんなことはあまり感じられない。
でも、時間が過ぎていく早さは、猛烈だ。
ほんとに少しも留まることなく進んで行くから、テンポの遅い私は、時にはついていけなくなる。

子供の時には夢のように感じられた21世紀。
21世紀が来ることがあるなんて、ほんとうにSFのように思っていた。
でも、もう来てしまったんだ。
ものすごい速さで。

起きてしまったことは後悔しないで…なんてよく言うけど、私は後悔の専門家だ。
いつも後悔して、うじうじして、そして21世紀もまた同じようにうじうじと過ごすに違いない。
それもまた私らしさかな…と半ば諦めにも似た心境で、新世紀に臨む私。

ひとつだけ、ネットで私を支えてくださった人たち、…その人たちは、私の波長を受けとめてくれるのか、私に合わせてくれるのか、私が「こうして欲しい」と思うことを、そのまましてくださる。
うじうじした私を嫌がりもせず。
感謝感謝です。

さて、31日7時まできっちり仕事のある私。
自分に同情しつつ、20世紀を終えます…。

 

12/27 父の死

少し落ち着いて冷静になって来た今。
でも、何か書くとしたらやっぱり亡くなった父のことしか浮かばない。
こうなったら納得のいくまで、とことん、父のことを書いて書いて書きまくるのだ。

12月19日朝6時20分、母と私、家に下宿している姪の前で父は息を引き取った。
ベッドの横に置かれた心拍と血圧を測定する機械が一旦0になった時、思わず夢中で泣き叫んでいたが、それにびっくりしたのか、再び計器の数字が動き始めた。
でも、それも僅かな間で、次には静かに少しずつ0に近づき、そしてもう、2度と数字は戻らなかった。

17日日曜日夜、仕事を終えて家に帰ると四国から見舞いに来ていた姉がいて、母は病院に泊まると言った。
その日初めて母は病院に一晩中泊まった。
18日月曜日の朝、私と姉と姪が病院へ行くと父が酸素吸入のマスクをし、荒い息をして、白目を剥いていた。

呼んだが、私が分かったかどうか。
看護婦さんの声にうんうんと頷いてはいたが、私の声は聞こえたかどうか。

病状が安定して来たので、姉は四国へ帰ると言い、姪は仕事へ行き、一晩泊まった母に代わって私が父に付いていることにした。
その日1日病室にいたが、夜8時頃病状が悪化した。
看護婦さんが、母を呼んだ方がいいと言った。

母を呼び戻すと病状がまた安定した。
来ていた姪が家へ帰り、私と母は残ったが、11時半頃、私は家へ帰ると言った。
ネットをするためである。
母には洗濯をするからと言った。

こんな時にでも、私はまだネットをしていたのだ。

真夜中、家へわけもなく早足で急ぎながら、寒々とした気持ちを抱えていた。

おとうちゃん、ごめん。

何がごめんなのか。
家へ帰って、もしその間に父に異変があったらどうするのか。
取り返しがつかないことになったらどうするのか。
そう繰り返し問い続けながら、それでも早足で家へ戻らずにいられなかった薄情な私。

情けない気持ちだった。
我ながら、どういうつもりだったのだろう。
なんて罪深い、業の深い人間なのだと、この自分にしらじらとして愛想をつかしていた。

4時半ころ、姪が私を起こした。

私は眠りこけていたのだ。

二人でタクシーに乗り、病院へ行った。
父の顔を見るとまだ、今日ではないと思い込んだ。
心拍数も血圧もだいぶ低くなっていた。
でもまだ大丈夫だと…。

最後には血圧が測定不能になったと言われた。
血圧が50以下になると、機械には表示出来ないのだ。

なぜ、あの時家へ帰ったのだろう。
どうして一晩中ついていられなかったのか。
もともと母に代わって、私が泊まると言っていたのに。

口を開けたままだった。
姪があの口はしまらないのかと聞いた。
硬くて動かないのだった。

父が大好きだった。
30代の頃は、縁談のことで揉めた事も何度もあり、険悪になった事もあった。
でも、諦めたのか、やがて何も言わなくなった。

どんなに好きでも、親不孝だった。
結婚しなかったことが、一番親不孝だった。
世間で言えば、いかず後家といわれる身分なのだろう。
そんな私に対しても、父はあらん限りの愛情を注いでくれた。

いつまでも甘ったれで世間知らず、いい大人のくせに何もものを知らず、ただ年だけ取ってしまった私、そんな私にそれでも溢れるような愛情を注いでくれた父。
だから私はそんな父の愛にずっとずっと包まれて、今まで最高に幸せだった。
父が私を幸せにしてくれた。

でも父は?

そう思うと、心が痛い。

苦労をして、苦労ばかりで、苦労だけして死んでしまったのではないか。
父は幸せだったのだろうか?
幸せを感じたことはあったのだろうか?

こんなむごい死に方をして、真面目に、慎ましく生きてきた果てがこの有り様なのか。

おとうちゃん。

ねえおとうちゃん。
どうなん。

……

12/13 市バスが来ない

今日という今日は、本当に堪忍袋の尾が切れた。
私は今、猛烈に怒っている。
怒髪天を突いているのである。

京都の市バスの遅延問題についてである。

このように、ツヅリカタに綴っているが、このようなまどろっこしい方法では表現出来ないくらい、怒っているのである。

バス停に着いたのが10時8分であった。
今日は南座の顔見世。母が行けなくなり、私が代わりに行くことにした。

歩きながらバスが行くのが分かったのでいやな予感はしたのだ。

顔見世の開演が10時半。ぎりぎりである。
しかし、私のいるバス停から四条河原町のバス停までは5分。そこから南座までは早歩きで(笑)5分。
じゅうぶんな余裕はあるはずだと、誰もが思わないだろうか?

バスの時刻表を見ると10時12分と書いてある。
次は23分。それだと間に合わない。でも、もう来るだろう。

それから私は10分待った。
バスが来ない。

さらに待った。
来ない。
人は来る。バスは来ない。

結局来たのは23分。
12分に来るはずのバスは間引かれたのだろう。
或いは遅延で遅くなったのだ。

市バスで一番腹の立つのがだんご運転だ。
待っても待っても来ない。
しかし来たと思ったら2台も3台も連なって来るのだ。
一番ひどい時は、5台というのがあった。

なめとんか。

その前に我々は20分も待っているのだ。
そして、5台のバスがしずしずとやって来る。
いくら何でもひどすぎる。
京都市は何を考えているのか。

何処へ訴えたらいいのか。
やはりここは京都市交通局だろうか。

私は市バスを毎日利用しているので、市バスについての苦渋は数限りなくある。
とてもここでひとくくりに書けたものではない。
であるから折々につけて書き継がれるだろう。

しかし、あえて今ひと事言いたい。
なめとんか。

京都市の交通事情は最悪である。
その中でバスを運転するのは困難であろう。

だが、5台のだんご運転はひどい。
何の予告もなく間引くのも、ひどい。
私たちは、遊びでバスに乗っているのではない。
用事があるから、目的地に行くためバスに乗るのだ。

バス停に着き、すぐにバスが来たらそれはラッキーだ。
ラッキーだと思い、ありがたがらなければならない。
20分待たなければならなかったら、運が悪かった。
そういう運命だったのだと諦めなければならない。

バスに乗れる乗れないは、運なのか?
なめんなよ。

 

12/1 HP開設1周年

このホームページを開設して一年が経った。

本当は11月の末に既にサーバーにはアップロードしていたのだが、でもその時はまだサイト名も今とは違っていて、仮の名前で、試運転としてメールアドレスを持っていた親しい人たちにしか、まだ見てもらっていなかった。
トップページも今とはデザインが違った。
自分としては、12月になったら正式にスタートしよう、という気持ちだった。

初めてアップした時は、画像にペケ印があまりに多くて、がっくりした。
開くのに大変な時間がかかり、絶望した。
何より、アップするのに四苦八苦して、私には無理なのだ…と、諦めかけさえした。

しかし、バービーサイトは大抵女の人がウェブマスターだ。
彼女たちだってこんな苦労をしたのだ、彼女たちだってやり遂げたのだ、と言い聞かせ、何とかアップロードしたのだった。

それまで半年、ずっとサイトを作り続け、いじり続けていた。
その中で失敗は山ほどある。

ファイルをホームページ用のフォルダに一まとめにせず、あちこちに散らしていたし、画像の名前をカタカナで保存していたりした。
もう滅茶苦茶である。

でも最初はそんなものだ。
誰でも覚えがあるのではないだろうか。

私の自慢は、何より誰にも頼らなかったということだ。
全部自分一人でやり遂げた。

コンピューターを使う事も、ホームページを作る事も何もかも、知らない事ばかり。
むつかしいだろう。果たして出来るのだろうか。
最初は不安ばかり。

でもそれでも出来た。
それがとても嬉しかった。

****

当初、ページを始めて、何事もなく1年、2年が経ち、ページは続いていくんだろうと思っていた。
でも意外と波乱があり、もうページを止めよう、と思ったことも何回もあったのだった。
1年も経たないうちにやめてしまうのか…と、その時は悔しく思った。

ホームページを作る事は私の一つの実現可能な夢で、作り上げてからは何より楽しみな、大事なものになっていて、それが、もうどうでもいい、と思えてしまうようになるなんて、よっぽどのことだ。

**

でも、とにかくサイトは続いた。
機械的にであれ、毎日仕事から帰るとコンピューターを起動させ、自分のページを立ち上げる。
それが習慣となり、つらい時も悲しい時も、やがてホームページが文字通り、帰って来る家のようになった。

私のように、お人形の趣味の人たちと簡単に交流が出来ない地方の人間には、たとえ脆弱であろうとも、ネットの上での交流は何より欠かせないものだ。
ネットを取り上げられたら、何の楽しみが現実の私に残っているだろう。

ネットで交流する事は、現実の付き合いとそう変わらない。

ネットの世界は基本的にバーチャルで、どんな虚構でも作ることが出来る。
そんなバーチャルな世界で築いた人間関係は、所詮脆弱なものに過ぎない…そんなような意見を聞く。

でも、ネットにいる人たちは、私と同じ人間だ。
コンピューターのむこうには、私と同じ心持ちの人間がいる。
コンピューターの前に座っていても、それが感じられる。

掲示板で、少し言い過ぎたのではないか…、言葉が足りなかったのではないか…、そんな風に気をもんだりするのは、現実の付き合いと同じだ。
むこうには生きた人間がいるからだ。
それは私と変わらない、ちゃんと生きた人たち。

ホームページのマスターの中には、自分のページを作ることが生きがいになっているという人や、ページ作りがライフワークだという人もいる。

私は、そういう人の気持ちが良く分かる。
ホームページは、そう望まなくても自分の分身だ。
ホームページマスターの人たちの気持ち…どんなに大きなサイトでも、その人たちの気持ちは私とそんなに変わらないのではないか…、そう思うと、私は少し勇気づけられる。

これからは、胸を張ってネットが好きだ…、そう言えるだろう。

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