3/7 アポロは月に行かなかったのか
3/18 アカデミー賞ノミネート記念 宮崎駿大批判
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「戦場のピアニスト」ロマン・ポランスキーについて補足
3/31 「戦場のピアニスト」ロマン・ポランスキーについて補足
別項に書いたロマン・ポランスキーについての補足。
ポランスキーは1933年生まれ、ユダヤ系ポーランド人。母は強制収容所で亡くなる。
1962年最初の長編「水の中のナイフ」を発表、そののち亡命(当時はソ連のもとでポーランドは共産国だった)、イギリスに渡り65年「反撥」「袋小路」を製作、ハリウッドに招かれ「吸血鬼」「ローズマリーの赤ちゃん」。
70年、「吸血鬼」で共演、結婚した女優シャロン・テートが狂信的なヒッピー、チャールズ・マンソンに惨殺される。
ポランスキーは「マジック・クリスチャン」出演のため渡英中、シャロン・テートは妊娠しており、友人とパーティーを開いていたさなかの出来事だった。
凄惨な現場は公開されなかったが、シャロンは体中を傷つけられ逆さ吊りにされていた。イギリスに渡り「マクベス」など撮った後、74年再びハリウッドで「チャイナタウン」。このころハリウッドと欧州を行き来する。
77年幼女暴行容疑に問われハリウッドから逃げる。
以降、アメリカへは戻っていない。79年「テス」、81年パリの舞台「アマデウス」(兼主演)、88年カフカの「変身」の舞台に主演。
88年「フランティック」はアメリカ映画だがパリでオールロケ。以降、コンスタントに作品を発表している。
映画監督でこれほど特異な経歴の人も珍しい。
映画の項では「閉所の作家」と断定したけれども、実は作品はバラエティに飛んでいて、とても一言では括れないのが本当のところである。
スリラーあり、文芸作品あり。どちらかというと、作風の統一が取れていない、バラバラという方が当たっている。それと共に、俳優としての面も侮れない。「変身」の舞台が話題になったらしいから、俳優業も余技というより本格的だ。
自身の映画作品でも「チャイナタウン」のちょい役から「吸血鬼」「テナント」「パイレーツ」など主演までこなす。
他作家の作品のゲスト出演なども多い。
「マジック・クリスチャン」にゲスト出演していたということから、当時のそういう人たちと交流があったこともまた窺い知れる。
映画の所で触れたように、女性というか、女優に対しても積極的。細君は必ず自身の映画に主演した女優だ。一言でいうと、一筋縄ではいかない、ということだろう。
***
「戦場のピアニスト」がアカデミー賞の監督賞・主演男優賞を獲得したのは、ハリウッドがこの手のものが好きだからだという話があった。
イラク戦争の影響もあっただろうが。ハリウッド、及びアメリカはユダヤ人が多いから、ユダヤ人受難テーマは受けるのだ。
しかしだからといって、イスラエルが30年以上も「国連決議を無視して」いることが正当化されるとは言えない。パレスチナを蹂躙することが認められるのだろうか。4000年以上前は自分たちの土地だったからと言ってそこに居座るのが認められるなら、アメリカだってすべての土地をネイティブに返さなくてはならないのではないのか。
50年前に自分の土地だった所でさえ今は別の他人の国のものだ。ひとりイスラエルだけが自分の土地だと主張しても通らないのは道理だろう。
私の考えは単純で極端だと思うが、考えていることだけでも一応書いておくのだ。
3/18 アカデミー賞ノミネート記念 宮崎駿大批判
イラク攻撃とアカデミー賞の授賞式が迫って来た。
「千と千尋の神隠し」が今年度のアカデミー賞の長編アニメ賞を取りそうだと報じられ、日本中が大騒ぎになった。
しかし、アカデミー賞の作品賞にノミネートされたのならともかく、オスカーの中でも目立たないアニメ賞を取ってもそう大したことではないのではないか。ベルリンだか、カンヌだかで作品賞を取ったのも騒がれたが、というよりもまずそこで賞を取ったことで騒がれ始めたのだが、その賞の方がすごいことだろう。
ともあれ、現在の日本人で宮崎駿を悪く言う人はいない。
皆無である。
皆彼を誉めそやしている。彼をひとことでもそしりでもしようならば非国民と嫌われ、日本のすべてのアニメ・ファン、オタク、こだわり派、美食家、金満家、貧乏人、政治家の非難を浴びるだろう。
今、宮崎を批判することは、日本人すべてを敵に回すことになるであろう。私は、あえてそれをする。
私は宮崎駿が大嫌いだ。
私は海外で認められたからといって、それが理由で同国人としてその人間を急に賞賛するような態度は取らないのである。
(田中耕一氏の場合はキャラが立っていたので別だ)
***
宮崎駿の名前がどうしても覚えられなかった。むつかしくて何と読むのか分からない。
しかし、ワードのワープロソフトは一発変換をしてしまうのだ。
それほど、日本では知らぬもののない有名な名になったのであろう。宮崎といえば、どうしても宮崎勉が思い出される。
幼女を何人も殺したのち陵辱した、あのロリコンオタクである。非常に似ている。
どちらもロリコンである。
違うのは情熱がアニメに向いているか、現実の幼女に向いているかだ。だから私は宮崎といえば、良く似た二人をセットで思い出す。
なぜ宮崎駿が嫌いか。
ロリコンだからだ。
私は、ロリコン男がきらいなのだ。
これは長くなるのでまた別の機会にしよう。***
私ははっきり言って、宮崎駿のアニメを見ていない。
きらいだから見ないのだ。
全部見たのは、テレビ放送された「ルパン3世・カリオストロの城」くらいではないか。
それも全部見たかどうか記憶があやふやである。だから、本当は宮崎駿を批判する資格すらないのだ。
批判をするなら作品を見てからでなければなるまい。それでもあえて、する。
「カリオストロの城」を手がかりに、それを見ただけででっち上げてしまうのだ。
宮崎駿のアニメが、ディテールの細かさで支持されているらしいことは、何となく知っている。
人物の動作などが細かい。
細かすぎると言ってもいい。
とくに少女のしぐさが細かい。異様に細かすぎて、普段どこを見ているのだろうと疑問に思うくらいである。しかもその少女のしぐさが気持悪いのだ。私には嫌悪感しか感じられない。
これはもう、DNAに組み込まれた嫌悪感だと思う。(またか)ex.少女が走る時の動画(予告編か何かで見た)。
肘を曲げ、その腕を上下に振るのでなく、左右に振る。しかも腕の角度が180度上を向いている。言葉ではなかなか言い表せないが、あんな走り方をする少女を私は許せないのだ。
また「カリオストロの城」はオリジナルストーリーなのだろうか?、それともアダプトがあるのかは知らないが、ストーリーが大変洗練されている。
スリルも申し分ないし、アニメならではの表現にもすぐれている。「カリオストロ」の良さは分かっているつもりだ。
しかしそれでもなお、あの「おじさま…」で気分はいっぺんにどんよりしてしまうのだ。ヒロインのクラリスの性格造型が女から見るとあまりにもカマトトでいただけない。
大抵の男はあの「おじさま」でやられたという噂を聞く。
宮崎アニメが男たちに受けるその点にこそ、私の嫌悪感の原因があるのだ。
しかもロリータ娘のくせに美しくない。
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宮崎アニメの主人公は、殆どが少女ヒロインである。
それがもう駄目である。
というよりもそれこそがネックなのだ。それで宮崎アニメにどうしても入れない。かつて少女だった私の目から見て、男性が少女を理想化して描くことにどうしても抵抗がある。
そこに邪なものを感じてしまうのだ。性的なものが問題なのではない。
もし少女に性的な関心を抱いていることをあからさまに表現しているのなら、その方がずっと潔いように思う。
幼女のヌードをひそかに撮影していたルイス・キャロルのように。しかし少女をありうべからざる、ありうべき姿として描くことは私には耐えられない。
それはジャンヌ・ダルクを聖化しようとした人々の心と呼応するかもしれない。三島由紀夫は「仮面の告白」の中で、主人公にジャンヌ・ダルクを憎んでいると言わせた。
その気持ちに私はいたく同調出来る。私は、私が宮崎駿をきらうわけを日本人の誰一人として理解してくれなくとも構わない。
たった一人でも私は宮崎を憎むと叫び続けるだろう。
ただ同性愛者は理解してくれるのではないかという予感が何となくある。
ゲイの人たちも、あの少女ヒロインに我慢が出来ないのではないか。なぜ少年を主人公に出来ないのか?と問いたい。
アニメの主人公は少年でなければならない。余談であるが、私はゲイと、もてない女、或いは美しくない女の心持ちは全く一緒だという持論を持っている。
(余談ではなく、これが本論かもしれない。)
中途半端なのでこの項を続けようと思ったが、やる気が失せたため、これにておしまいです。
3/7 アポロは月に行かなかったのか
少し前に、「アポロは実は月に行っていなかった」というヨタ話が少しばかり世間を賑わせた。
テレビで取り上げられたので聞いたことのある人もいるかもしれない。
そういうタイトルの本が今でも本屋で売られている。「カプリコン1」でもあるまいしと思ったが、或いはこの本の著者は案外あの映画を見て思いついたのかもしれない。
なぜなら、月着陸の映像は地球上のスタジオで撮られたと主張しているからだ。
それにしてもオリジナリティのない主張だ。
どうせならもう少しましなヨタを飛ばせないものか。
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世間で当たり前に通用していることを根底から疑う、という態度は、必要なことだとは思う。
どのようなことでも、自分では確めようとしないで、世間で常識となっているから正しいのだと思い込むことは、真理を求める人間にとっては悪しき態度であって、怠慢のなせる技だと言えるだろう。
突然ではあるが、私は常々地球は本当に丸いのか、と疑問に思って来た。
飛行機に最後に乗ったのはいつだったか、もう10年以上前になると思うが、その時水平線が丸く見えるであろう窓の外を頑固に見ようとしなかったことがある。
それで地球が丸いことが明らかになってしまうのが残念だったからだ。もしかして地球は平たいのではないか。
その主張が簡単に退けられるのが残念でたまらなかったのだ。
地球が丸いことは、子供の時から知っている。
それは1690年くらい(?)に証明されてから人類の常識となり、疑う人はいなくなった。
私たちは子供の頃からそう教えられてきて、地球が丸いことを幼児の時から疑うことはない。しかし、それは知識として教え込まれたからに過ぎず、自分で地球が丸いことを証明したからではない。
実際に見てもいないのに地球が丸いというとを信じる、ただそう教えられたから信じる、という無反省な態度に、私はふと疑問が沸いて来たのだった。
それで自分で確めるまでは、もしかしたら地球は平たいかもしれないと信じてもいいのではないか、などとそれこそヨタな信念をなぜか、持ってしまったという訳なのだった。
***
ガリレオの時代、地球は動かず、太陽が地球の周りを回っていることは常識であった。
世間の、キリスト教のその常識を疑ってみることなど、当時の人間は考えもしなかったことだろう。そのことに、観測と計算とによって疑いを持ったガリレオは、さぞや自分の考え自体を信じられなかったことだろう。
それでも自己の考えを変えなかったガリレオはえらい。誰でも世間の常識というものを、常識であるがゆえに疑おうとはしないものだ。
その常識をいちばん始めに疑うということをした人間は勇気がある。誰にも支持してもらえなくとも、それが常識だから正しいのではなく、それが真実だから正しいと考える信念を持てることは偉大だ。
いつの時代にも、疑うことから正しい学問や真理の追究がなされて来た。もちろん何でもかんでも疑えばいいというのではない。
洞察や研究によって今まで疑いもしなかった既成概念が間違っている、と気づくことが偉大なのだ。
昔に比べれば格段に科学が進歩した現在、分からなかったことは次々と解明されて来た。
昔、日食や月食は禁忌や恐れの対象であったが、今では天体の規則的な運行によるものだと解明され、恐れる者はいない。
その時代にはまた天体の運行が人間の運命に影響を及ぼすとされていたが、現在、天体と個人の人間の運命の間に相関関係があると考える者はいるだろうか。
それにもかかわらず、占星術、或いは星占いは今でもさかんだ。
日食を禁忌として恐れる人間はいないにも関わらず。
占星術とは、その、日食が禁忌であった時代に生み出された迷信であるのにも関わらず。人間は、分からないことを何とか分かろうとして学び、研究し進歩を遂げて来た一方で、相変わらず愚かなままの面も持ち合わせている。
何を疑うか、何に疑問を抱くかは個人の格式によるのだろう。
あまりつまらないことに疑問を持つと、人格を問われることになる。